夜は名前をもたない

夜は名前をもたない 夜という物質があるわけではなく ただそこに在る物質たちが夜として響きあう 意味も秘密もない響きのなかで 物質たちは夜を慈しみ 夜をガウンのように纏う 名前の与えられたあらゆる物質の隙間に 夜は漂い 世界の消息に耳を澄ます 二十三街区の地図にもない路地に 名前をもたない影がひとつ 佇んでいる 何か目的のあるわけでもなく 何か思い出のあるわけでもなく ただ耳を澄ませている 夜が何かのはずみに形象化したものかとも思ったが それにしてはあまりにたよりない 死に損なった民俗学者かとも思ったが それにしては目がどんよりしている 通りかかった黒猫が怪訝そうに影を見上げ 尻尾を立てて ゆっくりと過ぎていく どこからかうたが聞こえてくる 窓という窓はどこまでも暗く ラジオの音にしてはあまりに澄んでいる やがてうたの止むとき はじめからなかったかのように 影のすがたも消える 物質たちのあいだにざわめきがひろがる 記憶が物質化しつつあるのか 物質が記憶化しつつあるのか どこかでアーカーシャの擦り切れる音がする もう地上に音楽家はいない 最後に残された黒猫が夜の見回りを終え にゃあとひと啼きすると 小さな記憶をしのばせて夜の奥に消える 夜がしだいに結晶化をはじめる 結晶化といっても物質化ではなく 限りなく無に溶けこんでいく 夜は名前をもたない 夜という物質があるわけではなく ただそこに在る物質たちが夜として響きあう

無の書物

目が覚めると 雑然とした机の上に無の書物が置かれている それはまるで宇宙創生のときからそこに在るようで 圧倒的な存在感が光を放っている いまにも崩れてしまいそうな頁に 見たこともない 不揃いの文字が連綿と並んでいる 海の飛沫のような文字はあらゆる方向に連なっていて いったいどのように文字を追えばよいのか 皆目見当がつかない 頁を捲ろうとすると 指先は虚しくも空をつかみ 春の野に取り残される すでにそこにすべての記憶と記述が宿っているのに けしてそれに触れること それを読むことはかなわない それなのに それから目を離すことができない ふと目を離した隙に 砂糖菓子のように消えてしまいそうで ただこどものように空気の隙間で怯える ふいにこどもの頃の記憶が蘇り 思わず目を離しそうになる 縁日の屋台から屋台へと巡っているうちに しだいにあたりは寂れ いつのまにか 風の吹き荒ぶ廃屋の前に佇んでいる 帰り途もわからず ただ出鱈目のうたを口ずさみながら震える足を一歩 また一歩送りだすように歩いていく 遠くに灯りが見える たよりない灯りはゆらめきながら夜の奥に文字を綴る 何かに躓いて倒れそうになる からだを起こしながら足元を見ると草が結ばれている そうだ ずっと前にかくれんぼをしていたときに結んだものかも知れない かくれんぼはいまもつづいているのだろうか ふいに寂寥感におそわれその場に蹲る はらってもはらっても消えない夜が降ってくる 風のなかに頁の捲れる音が呟きのように響く 気がつくと机の脇に佇んでいる 机の上は雑然としていて 書きかけの原稿用紙が眠たそうに横たわっている 窓から風が入ってきて頬を撫でる 心の奥の箪笥から 何かが持ち去られてしまったような気がするが いったいそれが何であるかわからない 読みかけの本があったような気がするが いったいそれが何の本であるのか さっぱり思い出すことができない きっと記憶など 生まれたときから持ってはいない ただ無の粒子として誰に知られることもなく ここに在る

四ノ森

この伝説の森にはあらかじめすべての文字が象られ 枝先や葉裏にしまわれていた 歴史も思い出もまた記憶ばかり 文字を辿れば 過去から未来まで すべての歴史を読み解くことができる あらゆる記憶が 人の欲のままに造られる この森を抜けるもの あるものは狂喜し あるものは絶望し あるものは安堵した だが この森に入ったものはひとりとして出てこなかった それでこの森は四ノ森とも呼ばれていた ある玄月の夜 からだ中傷だらけの男が森にやってきた 男は近くの村へ旅に来ていた作曲家で 夜半すぎ 空襲警報で目を覚ました 宿は爆撃を受け 消失してしまった 夜空が紅蓮に染まっていた そして片足を引き摺りながら 地図にもない森まで逃れてきた 森のなかは静まり返っていた 空襲警報も 戦闘機の爆音も 銃声も聞こえなかった いったいこの森は誰にも見えないのだろうか すぐ近くが戦場であるとはとても思えない ただ静寂だけがひろがっていた 男はしばらくからだを休めていたが やがて近くに落ちていた枝を杖がわりにして森の奥へとぼとぼと歩んでいった 枯葉を踏みしめる音だけが響くなか 男の脳裏にさまざまな光景が浮かんだ 病院から抜け出して旅に出る前 男は鯨になってひとり暗い海のなかを泳ぐ夢を見ていた いま男は鯨になっていた 森のなかを泳いでいくと さまざまな夢を見た ふいに男は立ち止まり 後ろを振り返ったが宇宙のまんなかのような渦巻く黒い光がひろがるばかりで 何も見えなかった 男はふいに泪をこぼし その場に蹲った そして天を仰ぐようにしながら かぼそい ことばにならぬ声で うたう ことばにならぬうたが静かに森のなかにひろがっていく 森のなかにたたみこまれた文字がひとつ またひとつと剥がれ落ちていく 森がしだいに薄れていく 男の声がしだいに小さく 掠れていき やがて星が落ちるように途絶えた 森は消え 男は瓦礫の上に横たわっていた どこからか駒鳥がやってきて男の骸にとまり ことばにならぬうたをさえずる

あだし野

あらゆるものは記憶のなかに存在する そこに在るのではない 記憶こそが存在の揺籠である はるか遠くで風が鳴る たとえ亡霊となっても 髑髏となっても そこに記憶があるならばそれは存在なのだ 野の草の陰で ひとつの髑髏がかたかたと鳴る そこへ旅の僧が通りかかる 朽ちかけた井戸の脇に月の光に照らされた亡霊が揺れている もし そこな旅のお方 よほど高貴なお方とお見受けする わしは  なんでもへいへいと従うだけが取り柄のしがない足軽 先の戦で親方さまに直々に呼ばれ 頭をおまえに譲るといわれ みるみるうちに立派な甲冑を着せられ 立派な馬に立派な鞘を与えられ 馬子にも衣装とはよく云ったものだわい いざ参られいと云われ いざ敵陣へ しかし馬子にも衣装ではかなうわけもなく あえなく討死 その隙に親方さまは山の向こうへ逃げおおせ 討たれたそれがしは首検分で こやつ偽物とされ この井戸に打ち棄てられる始末 なんと儚しや 儚しや どうぞ経のひとくさりでも唱えてくださいまし 髑髏の眼窩の奥に妖しい光が灯る いや承知と 旅の僧が手をあわせ 念仏をひとくさり すると髑髏の記憶の一切が消え失せ 存在成仏 旅の僧は髑髏の眼窩に生えていた草を抜いてやり また 記憶巡り存在成仏の諸国の旅へ

夜の旋律

どこからか旋律が流れてくる それは風の隙間に紛れるほどのかすかな旋律で どこか哀愁を帯びていた むかしであったか聞き覚えのあるような調べが 大気のなかをたゆたっている 森のなかで聞いたのであったか 星空のしたで聞いたのであったか それとも生まれるまえのことであったか どうにも思いだせない ときおり 躊躇うように旋律が途切れる いったいどこで誰が奏でているのだろう そのとき 一頭の羚羊がとおりかかる 羚羊はふと立ち止まり 耳を立てて夜空を仰いだ そして鼻を鳴らし そのまま森の奥へ消えていった 羚羊もこの調べを聞いたことがあったのだろうか 旋律が少しざわついてくる 胸の奥につかえて壊れそうな 空の端にひっかかってほどけてしまいそうな たよりないざわめきが 木々のあいだをぬけていく 風の匂いが甘酸っぱい そろそろ桃の実がなるころだろうか ふいにあたりが仄かにあかるくなる 橄欖石はふと思いあたった そうだ この旋律は 十六夜の月の昇るときの調べであった

追憶のオルゲル

廃屋のなかの瓦礫に眠るオルゴールが 冷たい月光に照らされる いったいどれだけ月光を浴びたのか だれも数えるものはいない 月が雲で翳ったとき ふいになにものかの記憶が宿る いったいなにものの記憶なのか ほんのり斑の入った白い殻 鏡のように青い空 枯葉に隠れる蚯蚓 鈍色のうねる海 這うように翔る閃光 地の太鼓となり叩きつける雨 あらゆるものを吸い寄せる風の渦 瞬かない星群 ぷつりと途切れる記憶 オルゲルはせめて旋律を奏でようとしたが あいにくもう櫛歯は残っていなかった 透きとおった静寂ばかりがあたりに残響した オルゲルのなかには無数の記憶が宿っていた 人であることも 木であることも 虫であることも 水であることも 石であることもある 行き場を失ってしまった記憶がやってきてオルゲルに宿る 記憶が存在であるならば たったひとつのオルゲルは無数の存在である だがオルゲルはいったいなにものか オルゲルにはオルゲルの記憶がない ただオルゲルであるばかりだった すでに気配の欠片もない廃墟の瓦礫で オルゲルは冷たい月光に照らされている

物質的郷愁へ

それはとうにいのちを終えたというのに まだ両の目をぎらつかせていた 結晶化し物質界にとけこんだはずの目には どこまでも冥い世がうつっていた それはただ無機物がぶつかり犇きあう退屈な世で 花の一輪さえなかった もはや地上には誰のすがたもないだろう それなのに なぜ此処に最後の意とおぼしきものがゆらめいているのか これは涯しのない罪の償いなのか それともいずれやってくる時の予祝なのか もう詞など忘れてしまった もう経など忘れてしまった それでもちろちろと意の火が揺れている なにか円い影が 壁にうつしだされている これはわれの眼窩なのか 日なのか それとも月であるのか 遠い遠いむかし まだ歯も生え揃わない童だったころ 出鱈目で 奔放なウタが口をついていた そのときはまったくわけが分からなかったが あのウタはあらゆる世の祝詞だったのだ ウタには物質的郷愁がふきすさび 日の光も 月の光もただ冷たかった あの鋭利な刃が心臓を抉り 目をくり抜いたはずだが どうにもその後が不分明だった 星から落ちてきた光につつまれると そこは冥い穴のなかで 挿しこまれた竹筒の向こうでうねるような声が響いていた しばらくのあいだ声に耳を澄ませていたが やがてそれは乾涸びた耳には届かなくなった われが物質化する刹那 竹筒の先から一筋の月の光が射した それは宇のはじまりのようであり 極小でありながら極大であり 勾玉のように回っていた すでにすべて物質化し 死をこえたはずであるのに ひと吹きの意が残っていた それもいま消えかかっているが そこにあらわれるのは無辺か それとも底なしの無か おそらくそれを見ることも知ることもないだろう 物質的郷愁のなかでいま意が…

ウタ

ある寒い冬の夜 どこからかウタがやってきて あまりの寒さに思わず土にもぐりこんだ 土のなかも十分あたたかいとはいえなかったが 春のウタでからだを震わせ 寒さを紛らわせた 土のなかはさまざまな虫の幼虫や 種や 蚯蚓や 菌で犇いていて たいそう賑やかだった ここが荒野であることが不思議なほどだった ある夜 誰にも知られないあたたかな雨が降った ウタが春のようにからだを震わせると 幼虫や 種や 蚯蚓や 菌が目をさました そして欠伸をひとつすると むくむくとうごきだした はじめそれはぶるっとするほどのかすかなうごきであったが やがて荒野ぜんたいがむくむくと動きはじめた ウタはつづいていた そして千の季節のすぎるころ そこは小さな森になっていた 蚯蚓や枯葉が土に養分をもたらし 木が葉をひろげ実をつけるころになると どこからか鳥や 虫や けものたちが集まってきた ウタはつづき 森はたいそう大きくなっていった そばに里ができ やがて猟師が森にやってくるようになった 猟師たちは必要なだけの獲物をとると祭りを行い 恵みに感謝し 祈りを捧げた また千の季節がすぎる ウタはつづき 森は変わらなかったが 里は荒廃し やがて森が開拓され 住宅が立ち並び 道がそこかしこに走るようになった そして住宅から吐きだされる廃棄物が散らばり 処分場がつくられた また千の季節のすぎるころ 森をおさめていた狼のホロが錆びた罠にかかって死んでしまった 一雫の泪を残して ウタは止んだ するとみるみるうちに森は枯れていき 土に還っていった そして流行り病がひろまったかと思うと 消毒液の匂いを残して 住宅も土に還っていった ウタはゆっくり地表に顔を出し 春の風の吹くのを待っていた

うつしよ

ある春の月夜 森にひとりの年老いた猟師のウスラがやってきた ウスラはこのあたりで最後の猟師であったが もうほとんど視力を失っていて 匂いで森を感じるばかりだった もちろん もう獲物を獲ることなどできない 匂いで木の実を嗅ぎ分けてはそれを拾い 腰から下げた袋に詰めていった 今宵は最後の猟のつもりで ぴかぴかに磨いた鉄砲を下げてこの森に入った だが銃弾はこめられていなかった 森のなかをゆっくり歩いていると なにものかがじっとこちらを窺っているような気がした 森の奥にはウスラが鳥籠と呼んでいる泉があった まだ若かったころ 森に迷いこの泉に辿り着いた 少し窪んだ地にあり一頭の羚羊が水をのんでいた 羚羊の背中には何羽かの鳥が止まり囀っていた 獲物を仕留めようとも思ったが 森に迷いあまりに喉が渇いていたので 思わず泉に駆け寄って喉を潤した それ以来ここでは狩をせず 黙って休むことにした ここに集まるものも誰もウスラを警戒しなかった この鳥籠は 村のものは誰も知らなかった ウスラだけの秘密の場所だった 今宵も少し息を切らしながら鳥籠に辿り着く だがけものたちのすがたはなく ただ月光が水面を妖しく照らしていた ウスラは鳥籠の脇の苔むした倒木に腰を下ろし 鉄砲をたてかけた 銃口が梟の目のように光っていた ウスラはぼんやりと水面を眺めた そよかぜが頬にふれたとき あたりが微笑みかけるようにゆれたような気がした それは 此の世がまるで 一枚の薄衣のようにどこまでもたよりない そんなこころの波紋だった 触れるとそこからほろほろとほどけていってしまいそうな 息をするのも憚られるような そんな感覚だった あまりに甘美なこころもちに どこかに連れ去られてしまいそうだった ゆれる薄衣の上をむかしの青空や 水をのむ羚羊や 巨大な熊や 蝶の群れの影がすぎていった 此の身が薄衣のなかへとけこんでいく どこかで小さなあかりがちろちろとゆれる 此の身はすでに薄衣いっぱいにひろがり ゆれている  やがて薄衣はほろほろとほどけはじめ 薄い月の光のなかへと吸いこまれていく 翌朝 行方不明になったウスラの捜索が行われたがウスラのすがたはなく 小さな泉のほとりで 苔むした倒木にたてかけられた鉄砲が一丁 朝露に光るばかりだった

星わたり

ペンネは詞を話さなかった 舌をもってはいたがそれを詞のためにつかうのは億劫にすぎた ペンネの様子は その出立も振る舞いも 他のものたちとはまるで違っていた なぜ他のものたちと様子が違うのか それはペンネにもわからなかった なにしろペンネにはここ百年の記憶しかなかった それ以前のことは まるで窺い知る由もなかった ペンネには星から星へ渡る能力があった 夜空の星に狙いをさだめ じっと星を瞼の裏で思い浮かべて念ずると その星へ赴くことができた 目を開けるとまた此の星へ戻る それを見たものはやんやの喝采をする どうやら星から星へと渡っているさまが はっきりと見えるらしい でもペンネにとっては夢と変わりなかった あるときペンネは此の星に戻るとき 目を開けずに此の星を思い浮かべた すると此の星に戻ったのだが いつものような歓声はなく 静まりかえっていた あたりを見回すが誰のすがたもなかった 誰かを呼ぼうとするが 詞はついに出ない そこで目を開けようとするが 目はすでに開けられたままだった 此の星はいったいどの星なのだろうか 迷子になってしまったのだろうか 夜空を見上げるが 夜空に星はひとつもなかった ただ 玄い夜が百億年前からじっと蹲っているばかりだった