書物を庭に埋めるとき

ふと 庭が寂しそうと思った 別段花が咲いていなかったわけではなく 梔子が枯れかかっていたわけでもない ただ三日月の光を浴びている庭が どこか唇を結んで天を仰いでいるようだった それで書斎の奥からいまは触れることもなくなっ...

無辺浄土

無辺の浄土に 六枚の花弁をもつ一輪の花が咲く アルカシヤの花は小さく小指の先ほどしかない いまにも降り出しそうな空の下で風に揺れている その根には多様な菌が集まっていて 土という存在の在処をただ黙々と紡いでいる 根から菌...

香りのよい夜

どこからともなく よい調べのような香りの漂ってくる夜であった 文机の脇に 美しくもたわわな九本の尾をもった狐が 蹲っている なにか御用がおありですか と訊ねるが 細い目を一度開けてこちらを一瞥すると また瞼をゆっくりと落...

廃墟の夢

かつて夢は未来の記憶であったが ここでは森に呑まれてしまった廃墟の底に横たわる屍体でしかない 月が昇り 風がひとつ吹くたびに思い出も剥がれ 夜の分子に紛れていく ふいに分子の隙間から子守唄のような調べが流れたが もはやそ...

祈りの夜

ある新月の夜 キスカヌの木にもたれていると 肌がどこまでも薄くなり 血管や神経もどこまでも細くなり 細胞膜という細胞膜もどこまでも薄くなり やがて たよりない有機物の絲となってキスカヌの木のなかへゆっくり沁みこんでいく ...

世界測量士

このところ どうも世界各点の歪みがひろがっている ここ十万年分の観測記録をあたってみたが このような歪みはどこにも見当たらなかった 測量機器の故障もあるかとひとつひとつ調べてみたが何の異常も見つからない いったいいつから...

タブラ・ラサ

何も書かれていない掌ほどの古い石板を眺めながら 一杯の茶を啜ると 甘く懐かしい香りが鼻腔のなかにひろがり 名も知らぬ深山を渡る風を想わせた 古代鳥の卵を抱くように茶碗を掌のなかにおさめていると 幾筋もの湯気が朝方の雲のよ...

蟷螂の夢

蟷螂は夢を見た それはまるで果てることのないうたで はじまりも終わりもなかった ただ風のようにとうとうと流れ あらゆるものをつつんでいた 夢のなかではまだ月が昇っていた 月が昇らなくなって久しく もう月のことも忘れかけて...

森の王

石がひとつ転がり 夜がひとつ弾けた 王は真紅のガウンを纏い 蔓で編まれた王冠を被り 森のなかを巡回する 夜の巡回はすっかり日課となっていた この森は王国の領土であり 城でもあった この王国がいったいいつ建国されたのか 記...

鈴と沈黙

ある夜 少しだけ開けられた窓から 鈴の音が聞こえてくる 鈴の音がしだいに近づいてくる どこからかやって来た巡礼団かとも思ったが こんな夜半に歩くとも思えない いったいどこから聞こえてくるのだろうと 窓を開け 辺りを見渡す...