どこからともなく よい調べのような香りの漂ってくる夜であった 文机の脇に 美しくもたわわな九本の尾をもった狐が 蹲っている なにか御用がおありですか と訊ねるが 細い目を一度開けてこちらを一瞥すると また瞼をゆっくりと落とし 寝入る この香りはたしか伽羅の香りではなかったか こどものころ 祖父の書斎で聞いたことがある 眉をしかめると 祖父は春の日差しのなかで 声も立てずにただ笑っていた その数日後 祖父は上着を畳むようにして旅立っていった 書斎には 仄かな伽羅の香りだけが残っていたが それもひと月ほどしてかき消えてしまった そして初夏の咽せるような草の香りが佇んでいた あたりを見回すが 香はどこにも焚かれていない 文机の脇で深く息をしている狐から漂ってくるようだった この狐は祖父の化身なのだろうか それとも使いなのだろうか 祖父の顔が脳裏に浮かぶが 祖父は押し黙ったまま ただ笑っている ふいに狐の両耳がぴんと立ち 目が見開かれ 古代の彫像のようになる そしてこちらを一瞥すると 九本の尾にからだを埋めるようにして音もなくくるくると回り 一瞬星雲のような瞬きを放ったかと思うと そのまま文机に吸いこまれるように消えてしまった ただ伽羅の香りだけが残っていたが それもやがてふつと消えた