タブラ・ラサ

何も書かれていない掌ほどの古い石板を眺めながら 一杯の茶を啜ると 甘く懐かしい香りが鼻腔のなかにひろがり 名も知らぬ深山を渡る風を想わせた 古代鳥の卵を抱くように茶碗を掌のなかにおさめていると 幾筋もの湯気が朝方の雲のようにたなびき 立ち昇っていく ふいに湯気が静止すると 湯気の隙間を縫って昇るわれが在る たよりない湯気に指を絡ませながら 思い出を辿るように昇っていく ふと眼下を見やるとすでに縁側も地上も見えない そこにはゆらめく藍色の空間のひろごるばかり ふと天を見あぐると 星ひとつまたたかぬ暗黒が沈黙するばかり まるで空っぽの山水画だな と眉を掻いていると なにやら足裏がひんやりとする いつのまにかそこに 白っぽい石の大地がひろがっていた 思わず立ち昇る湯気から手を離すと 湯気はそのまま天へと消え去り ただ平たいばかりの大地に取り残された 匂いもなければ 音もない 足裏の感触もなければ 風もない やがて白く平たいばかりの大地の上で物質の結節点がほどけ 無数の線となって音もなく落ちていく 気がつくと縁側で 何も書かれていない掌ほどの石板を眺めていて 脇に置かれている茶はすっかり冷めている