夜は名前をもたない 夜という物質があるわけではなく ただそこに在る物質たちが夜として響きあう 意味も秘密もない響きのなかで 物質たちは夜を慈しみ 夜をガウンのように纏う 名前の与えられたあらゆる物質の隙間に 夜は漂い 世界の消息に耳を澄ます 二十三街区の地図にもない路地に 名前をもたない影がひとつ 佇んでいる 何か目的のあるわけでもなく 何か思い出のあるわけでもなく ただ耳を澄ませている 夜が何かのはずみに形象化したものかとも思ったが それにしてはあまりにたよりない 死に損なった民俗学者かとも思ったが それにしては目がどんよりしている 通りかかった黒猫が怪訝そうに影を見上げ 尻尾を立てて ゆっくりと過ぎていく どこからかうたが聞こえてくる 窓という窓はどこまでも暗く ラジオの音にしてはあまりに澄んでいる やがてうたの止むとき はじめからなかったかのように 影のすがたも消える 物質たちのあいだにざわめきがひろがる 記憶が物質化しつつあるのか 物質が記憶化しつつあるのか どこかでアーカーシャの擦り切れる音がする もう地上に音楽家はいない 最後に残された黒猫が夜の見回りを終え にゃあとひと啼きすると 小さな記憶をしのばせて夜の奥に消える 夜がしだいに結晶化をはじめる 結晶化といっても物質化ではなく 限りなく無に溶けこんでいく 夜は名前をもたない 夜という物質があるわけではなく ただそこに在る物質たちが夜として響きあう