目が覚めると 雑然とした机の上に無の書物が置かれている それはまるで宇宙創生のときからそこに在るようで 圧倒的な存在感が光を放っている いまにも崩れてしまいそうな頁に 見たこともない 不揃いの文字が連綿と並んでいる 海の飛沫のような文字はあらゆる方向に連なっていて いったいどのように文字を追えばよいのか 皆目見当がつかない 頁を捲ろうとすると 指先は虚しくも空をつかみ 春の野に取り残される すでにそこにすべての記憶と記述が宿っているのに けしてそれに触れること それを読むことはかなわない それなのに それから目を離すことができない ふと目を離した隙に 砂糖菓子のように消えてしまいそうで ただこどものように空気の隙間で怯える ふいにこどもの頃の記憶が蘇り 思わず目を離しそうになる 縁日の屋台から屋台へと巡っているうちに しだいにあたりは寂れ いつのまにか 風の吹き荒ぶ廃屋の前に佇んでいる 帰り途もわからず ただ出鱈目のうたを口ずさみながら震える足を一歩 また一歩送りだすように歩いていく 遠くに灯りが見える たよりない灯りはゆらめきながら夜の奥に文字を綴る 何かに躓いて倒れそうになる からだを起こしながら足元を見ると草が結ばれている そうだ ずっと前にかくれんぼをしていたときに結んだものかも知れない かくれんぼはいまもつづいているのだろうか ふいに寂寥感におそわれその場に蹲る はらってもはらっても消えない夜が降ってくる 風のなかに頁の捲れる音が呟きのように響く 気がつくと机の脇に佇んでいる 机の上は雑然としていて 書きかけの原稿用紙が眠たそうに横たわっている 窓から風が入ってきて頬を撫でる 心の奥の箪笥から 何かが持ち去られてしまったような気がするが いったいそれが何であるかわからない 読みかけの本があったような気がするが いったいそれが何の本であるのか さっぱり思い出すことができない きっと記憶など 生まれたときから持ってはいない ただ無の粒子として誰に知られることもなく ここに在る