四ノ森

この伝説の森にはあらかじめすべての文字が象られ 枝先や葉裏にしまわれていた 歴史も思い出もまた記憶ばかり 文字を辿れば 過去から未来まで すべての歴史を読み解くことができる あらゆる記憶が 人の欲のままに造られる この森を抜けるもの あるものは狂喜し あるものは絶望し あるものは安堵した だが この森に入ったものはひとりとして出てこなかった それでこの森は四ノ森とも呼ばれていた ある玄月の夜 からだ中傷だらけの男が森にやってきた 男は近くの村へ旅に来ていた作曲家で 夜半すぎ 空襲警報で目を覚ました 宿は爆撃を受け 消失してしまった 夜空が紅蓮に染まっていた そして片足を引き摺りながら 地図にもない森まで逃れてきた 森のなかは静まり返っていた 空襲警報も 戦闘機の爆音も 銃声も聞こえなかった いったいこの森は誰にも見えないのだろうか すぐ近くが戦場であるとはとても思えない ただ静寂だけがひろがっていた 男はしばらくからだを休めていたが やがて近くに落ちていた枝を杖がわりにして森の奥へとぼとぼと歩んでいった 枯葉を踏みしめる音だけが響くなか 男の脳裏にさまざまな光景が浮かんだ 病院から抜け出して旅に出る前 男は鯨になってひとり暗い海のなかを泳ぐ夢を見ていた いま男は鯨になっていた 森のなかを泳いでいくと さまざまな夢を見た ふいに男は立ち止まり 後ろを振り返ったが宇宙のまんなかのような渦巻く黒い光がひろがるばかりで 何も見えなかった 男はふいに泪をこぼし その場に蹲った そして天を仰ぐようにしながら かぼそい ことばにならぬ声で うたう ことばにならぬうたが静かに森のなかにひろがっていく 森のなかにたたみこまれた文字がひとつ またひとつと剥がれ落ちていく 森がしだいに薄れていく 男の声がしだいに小さく 掠れていき やがて星が落ちるように途絶えた 森は消え 男は瓦礫の上に横たわっていた どこからか駒鳥がやってきて男の骸にとまり ことばにならぬうたをさえずる