どこからか旋律が流れてくる それは風の隙間に紛れるほどのかすかな旋律で どこか哀愁を帯びていた むかしであったか聞き覚えのあるような調べが 大気のなかをたゆたっている 森のなかで聞いたのであったか 星空のしたで聞いたのであったか それとも生まれるまえのことであったか どうにも思いだせない ときおり 躊躇うように旋律が途切れる いったいどこで誰が奏でているのだろう そのとき 一頭の羚羊がとおりかかる 羚羊はふと立ち止まり 耳を立てて夜空を仰いだ そして鼻を鳴らし そのまま森の奥へ消えていった 羚羊もこの調べを聞いたことがあったのだろうか 旋律が少しざわついてくる 胸の奥につかえて壊れそうな 空の端にひっかかってほどけてしまいそうな たよりないざわめきが 木々のあいだをぬけていく 風の匂いが甘酸っぱい そろそろ桃の実がなるころだろうか ふいにあたりが仄かにあかるくなる 橄欖石はふと思いあたった そうだ この旋律は 十六夜の月の昇るときの調べであった