うつしよ

ある春の月夜 森にひとりの年老いた猟師のウスラがやってきた ウスラはこのあたりで最後の猟師であったが もうほとんど視力を失っていて 匂いで森を感じるばかりだった もちろん もう獲物を獲ることなどできない 匂いで木の実を嗅ぎ分けてはそれを拾い 腰から下げた袋に詰めていった 今宵は最後の猟のつもりで ぴかぴかに磨いた鉄砲を下げてこの森に入った だが銃弾はこめられていなかった 森のなかをゆっくり歩いていると なにものかがじっとこちらを窺っているような気がした 森の奥にはウスラが鳥籠と呼んでいる泉があった まだ若かったころ 森に迷いこの泉に辿り着いた 少し窪んだ地にあり一頭の羚羊が水をのんでいた 羚羊の背中には何羽かの鳥が止まり囀っていた 獲物を仕留めようとも思ったが 森に迷いあまりに喉が渇いていたので 思わず泉に駆け寄って喉を潤した それ以来ここでは狩をせず 黙って休むことにした ここに集まるものも誰もウスラを警戒しなかった この鳥籠は 村のものは誰も知らなかった ウスラだけの秘密の場所だった 今宵も少し息を切らしながら鳥籠に辿り着く だがけものたちのすがたはなく ただ月光が水面を妖しく照らしていた ウスラは鳥籠の脇の苔むした倒木に腰を下ろし 鉄砲をたてかけた 銃口が梟の目のように光っていた ウスラはぼんやりと水面を眺めた そよかぜが頬にふれたとき あたりが微笑みかけるようにゆれたような気がした それは 此の世がまるで 一枚の薄衣のようにどこまでもたよりない そんなこころの波紋だった 触れるとそこからほろほろとほどけていってしまいそうな 息をするのも憚られるような そんな感覚だった あまりに甘美なこころもちに どこかに連れ去られてしまいそうだった ゆれる薄衣の上をむかしの青空や 水をのむ羚羊や 巨大な熊や 蝶の群れの影がすぎていった 此の身が薄衣のなかへとけこんでいく どこかで小さなあかりがちろちろとゆれる 此の身はすでに薄衣いっぱいにひろがり ゆれている  やがて薄衣はほろほろとほどけはじめ 薄い月の光のなかへと吸いこまれていく 翌朝 行方不明になったウスラの捜索が行われたがウスラのすがたはなく 小さな泉のほとりで 苔むした倒木にたてかけられた鉄砲が一丁 朝露に光るばかりだった