プゼーとの約束

プゼーは象のかたちをした蝶あるいは蝶のかたちをした象 このところとんとみかけないが こどものころはいつもふたりで遊んだものだ プゼーはうたが好きだった 学校で習ううたとはまるでちがっていて 母音だけのうたで おまけに円環旋法とでもいうような 不思議な旋律だった 母音の数もゆうに六十は超えていて まるで天使の息のようだった 意味はさっぱりわからなかったが 子守唄のように心地よかった プゼーは石ころの陰や 木のうろや 草むらが好きだった でもプゼーのすがたは誰にも見えないようだった 一度友だちとの学校からの帰り道 プゼーがあらわれて紹介したのだが 友だちは気味悪がって先に帰ってしまった そしてそれ以来口をきいてくれなくなった それからはプゼーのことは誰にも話していない あるときプゼーに連れられて裏山にのぼった 裏山の中腹あたりに藪を抜けていくと そこに小さな洞窟があった プゼーに案内されるまま洞窟のなかへ入っていった 洞窟の壁に苔がびっしりと生えていて 苔がぼんやりとした光を放っていた 行ったことはないが 浄土のようだった くねくねとした洞窟を進むと やがて小さな広間に行きあたった プゼーは奥の壁の前に座り いつものようにうたをうたいはじめた プゼーのうたが洞窟のなかに響いて まるで宇宙のすべてがうたっているようだった そういえば生まれる前 そんな感覚だったな と思い出しかけたとき ふいにうたが止んだ いつのまにかプゼーのすがたも消えていた ふと いままだ味わったことのないようなさみしさがこみあげてくる プゼーはいったいどこへいったのだろう 小さな声で プゼーのうたをまねながら帰っていく それでもこのさみしさだけは抑えられなかった 洞窟を出るころには泣きじゃくっていた それからすぐ 引越しをした それから五十五年 そこそこいい人生だった 定年退職の日 花束を持ったまま 思い立ってあの裏山を訪ねる なぜかプゼーとの約束を思い出したような気がした 裏山の様子はすっかり変わり 冷たい住宅が整然と並んでいた 洞窟のあったあたりは小さな公園になり 奥に朽ちかけた小さな祠があった あたりを探し回ったがプゼーはいなかった 誰もいない公園のなかでブランコが風に揺れていた 不釣り合いな花束を祠の前に置き さみしさを抱えながら公園をあとにした 駅に着くと終電三十分前だった 誰もいないホームのベンチに座り 冷たい風に吹かれながら終電を待った そのとき 風にまぎれて何かうたのようなものが聞こえた気がした 目をつむり 耳を澄ます かすかではあるがプゼーのうただ あわててベンチから立ち上がり あたりを見回すが プゼーのすがたはなかった そのとき ホームに滑りこむ終電の警笛の音がすると プゼーのうたはそれきり聞こえなくなった 列車の扉が獣の口のように開く 一寸躊躇したが そのまま列車に乗りこんだ 乗客は誰もいなかった 空気の抜ける音がして扉が閉まる 座席につき ぼんやりと外を眺める 列車がゆっくり走りはじめる トンネルに入る手前 一瞬 列車の窓にプゼーのすがたが浮かび上がった あっと思ったとき列車はトンネルに入り 窓には老いた男の顔が浮かび上がった ゆっくり目をつむる プゼーのうたが耳のなかに残っていた それは宇宙を統べる黒い銀河のように いつまでも漂っていた