◎柳宗悦に「茶ノミ 茶カハ」という偈がある。およそ「茶だけを茶だと思う人は、茶を茶にしない」という意であるが、ここには逸れていく感覚、境をふらつく感覚がある。ふらついているのはいまそこにぶら下げられている「茶」で、それはまことにおぼつかなく、あてどなく、頼りなく、先に「何か」が待っているわけもない。ただ「そのまま」と「このまま」のあいだでゆらついている。彼が「他力の美」についてことばにするとき、同じように旗竿に「他力」を吊るしてぶら下げる。「それ」は「他力」ではあるが「他力」ではなく、「他力」の外(ほか)にあるただその微妙のあわい。「そう、それそれ、まてまて、これこれ」という感覚。「茶」は「非茶」に対しているわけでなく、「他」は「非他=自」に「対」しているわけでもなく、ただそのあいだ、あわいに揺れているだけのこと。それが「それ」になったり「これ」になったりする。それが「うつくし」であり、「またたび」であるということ。「美学」と云うてしまへば逸れてしまう、「巡礼」と云ふてしまへば取り逃す、そんな按配にある。
◎それが偈となり、花となる。そのあたりが他所(大陸など)の感覚と逸れているところ。それがたちまち大気にまぎれる声が、調べが、歌からの贈り物。いま、風はどのあたりを吹いていようか。なんともおぼつかないことか。