ふと 庭が寂しそうと思った 別段花が咲いていなかったわけではなく 梔子が枯れかかっていたわけでもない ただ三日月の光を浴びている庭が どこか唇を結んで天を仰いでいるようだった それで書斎の奥からいまは触れることもなくなった書物を十冊取り出し 錆びかけたスコップで庭の隅に穴を掘り 丁寧に並べて埋めた 火葬にするには偲びなかった ただゆっくりと土に還っていけばいい そんな気がした それから六日たった夜半 どこからかよい匂いがして目が覚めた 上着をつっかけ部屋のなかをあたるが 部屋のなかの匂いではないようだった 障子が月明かりでぼんやりとかがやいている 障子を開け 縁側にでて硝子戸を開けると 匂いが渦となって身体をつつみこんだ 草履を引っ掛け庭のなかを廻る どうやらこのあいだ書物を埋めたあたりから匂ってくるようだった どうやらボーヴォワールの『おだやかな死』を埋めたあたりか 地面に鼻をこすりつけるようにして見てみると なにやら透明な芽が出ている いったい何だろうと見ていると そのまま芽はぐんぐんのびつづけ やがて一本の大木となり 月の光に透ける実をつけた 少し手を延ばせば届きそうなところにぶら下がっている実をもぐと 甘酸っぱい匂いが鼻のなかにひろがった 手のなかの実はやはり透明であったが 月の光をうけておおよその輪郭をあらわにしていた その実は歪んだ瓢箪のような手触りだった 皮膚の隙間に引っかかるような感触が 刺々しい小動物を思わせ 夕空にやってくる浮浪の雨雲のように躊躇いをおぼえた 鼻のあたりにあててみると 臭気のなかに宝石の原石のような独特の匂いが混じっている 思わず両の親指を軽く押しあてると 親指はそのまま沈みこみ よい匂いが果汁とともに放たれた 果汁を溢すまいと唇をあてて吸いこむと 一瞬 蓮の花に坐って悲嘆に暮れる一人の老女の姿が浮かび上がった そのとき 何か毒気を吸いこんだように胸のあたりが苦しくなり 思わず瓢箪様の実を落としてしまった 実は地に落ちる前に蒸発するように消えた 胸の奥の悲嘆が夕立のようにひろがり 身体のすべてを染め さらに庭から家から天までをも呑みこんでいった 身体がすっかり天に埋めこまれてしまっても 悲嘆を止めることはできず 身体がそのまま天に空いた穴となり 冷たい古代の風が吹き抜けていった この底なしの悲嘆がいったいどこから生まれたのか知る由もなかったが それはけして潰えることのない悲嘆となって風のように蹲っていた すでに自分は天の隅々にまでひろがっていて もはや身体を知ることすらできない どこからかあどけない声のわらべうたが聞こえてくる どこかで聞き覚えのある声だがどうにも思い出せない やがてわらべうたと天の境も曖昧になり トグロを巻くようになる そして月が天頂に差し掛かったと思ったとき ぱちんとはじけ のっぺらぼうの無がひとつ 降ってきた
無辺浄土
無辺の浄土に 六枚の花弁をもつ一輪の花が咲く アルカシヤの花は小さく小指の先ほどしかない いまにも降り出しそうな空の下で風に揺れている その根には多様な菌が集まっていて 土という存在の在処をただ黙々と紡いでいる 根から菌へ 菌から菌へと運ばれるその小さな手紙は伝文があるわけでも 目的があるわけでもなく ただ一欠片の記憶を光らせている アルカシヤの根は花の器官でもあり 虫の器官でもあり 土の器官でもあり そのたよりなげな根は夜に紛れるように 土に紛れるように 呼吸するように 旅するようにのびていく 別にのびたいわけではない ただ器官としてそこに在るだけのことだ 根はのびもすれば 腐りもすれば 土竜や蚯蚓に食べられたりもする 腐った根は菌たちのご馳走になったり 土になったりもする 土竜や蚯蚓に食べられた根は分解され 土竜や蚯蚓のなかの根となったりもする こうして根は ここかしこで生まれたり 育ったり 腐ったりしながらも 相も変わらずひろがっていく 時折 あちらからやってきた根と会うこともある どこかの花や 草や 木の根であることもあるが 根と根が一旦結ばれれば もうそこに区別はない それははてしのない祝祭だ 祝祭がはじまって もう三十五億年ほどになろうか そろそろ根も此の星の隅々に行き渡り たったひとつの浄土となっている 浄土はいまも生まれつづけ いまも死につづけ ただ祝祭の旋律に耳を傾けながら ただ此処に在る
香りのよい夜
どこからともなく よい調べのような香りの漂ってくる夜であった 文机の脇に 美しくもたわわな九本の尾をもった狐が 蹲っている なにか御用がおありですか と訊ねるが 細い目を一度開けてこちらを一瞥すると また瞼をゆっくりと落とし 寝入る この香りはたしか伽羅の香りではなかったか こどものころ 祖父の書斎で聞いたことがある 眉をしかめると 祖父は春の日差しのなかで 声も立てずにただ笑っていた その数日後 祖父は上着を畳むようにして旅立っていった 書斎には 仄かな伽羅の香りだけが残っていたが それもひと月ほどしてかき消えてしまった そして初夏の咽せるような草の香りが佇んでいた あたりを見回すが 香はどこにも焚かれていない 文机の脇で深く息をしている狐から漂ってくるようだった この狐は祖父の化身なのだろうか それとも使いなのだろうか 祖父の顔が脳裏に浮かぶが 祖父は押し黙ったまま ただ笑っている ふいに狐の両耳がぴんと立ち 目が見開かれ 古代の彫像のようになる そしてこちらを一瞥すると 九本の尾にからだを埋めるようにして音もなくくるくると回り 一瞬星雲のような瞬きを放ったかと思うと そのまま文机に吸いこまれるように消えてしまった ただ伽羅の香りだけが残っていたが それもやがてふつと消えた
廃墟の夢
かつて夢は未来の記憶であったが ここでは森に呑まれてしまった廃墟の底に横たわる屍体でしかない 月が昇り 風がひとつ吹くたびに思い出も剥がれ 夜の分子に紛れていく ふいに分子の隙間から子守唄のような調べが流れたが もはやそれを聞くものも存在しない ただ分子ばかりが揺籠のようにゆれ 世界の淵を攪拌する 時から解放された夢は苔を伝う雫のように地に浸みこみ 世界を巡り やがて月になり 風になり 夜になり 無のなかへ消えていく ただ春のあたたかさだけが 廃墟をつつんでいた
祈りの夜
ある新月の夜 キスカヌの木にもたれていると 肌がどこまでも薄くなり 血管や神経もどこまでも細くなり 細胞膜という細胞膜もどこまでも薄くなり やがて たよりない有機物の絲となってキスカヌの木のなかへゆっくり沁みこんでいく そんな光景をどこからかぼんやりと眺め味わっている意識がゆらめいているのだが それはどこかにぶら下がっているわけでもなく 世界の隅々にまでわたっているようで もはや取り出すことも分離することもできそうもない そう そこに自分が在ったわけではなく ただ投射されるように浮かびあがっていただけなのだろう 植物の祈りにも似たざわめきがやってくる 本を開いたまま置き忘れてっしまったような淋しさが通りかかる 何かあったわけではない 何もなかったわけではない 意味などあろうはずもなく ただ物質的記憶として 名もなき水の分子のように流転し 時と戯れる
世界測量士
このところ どうも世界各点の歪みがひろがっている ここ十万年分の観測記録をあたってみたが このような歪みはどこにも見当たらなかった 測量機器の故障もあるかとひとつひとつ調べてみたが何の異常も見つからない いったいいつから世界測量士をやっているのか とうに忘れてしまったが このような歪みにはとんと覚えがなかった まるで世界が意志をもって挙動しているようだった まるでこれまでの測量がすべて白紙に戻されるような ちろちろとした不安に襲われる はじめは西の遠望台からだった 粒子がひとつ弾けたかと思うと 弾ける粒子が瞬く間に連鎖し 世界をそのまま入れ換えるように 裏返りはじめた 物質という物質が裏返り 時間も空間も裏返り この世界のすべてが裏返るまで たった一万年しかかからなかった 測量機器も測量もすっかり裏返ってしまったわけだが なんとか無事測量はつづけられそうだった いったい測量や記録に何の意味があるのか それはさっぱりわからない 生まれながらにして測量士であっただけのことだ ただいまは はたして測量しているのか はたまた測量されているのか それは定かではない はたして記録しているのか はたまた記録されているのか それも定かではない ただできることは 世界光を浴びながら 測地線の祀りでアリアを歌うことだけだった
タブラ・ラサ
何も書かれていない掌ほどの古い石板を眺めながら 一杯の茶を啜ると 甘く懐かしい香りが鼻腔のなかにひろがり 名も知らぬ深山を渡る風を想わせた 古代鳥の卵を抱くように茶碗を掌のなかにおさめていると 幾筋もの湯気が朝方の雲のようにたなびき 立ち昇っていく ふいに湯気が静止すると 湯気の隙間を縫って昇るわれが在る たよりない湯気に指を絡ませながら 思い出を辿るように昇っていく ふと眼下を見やるとすでに縁側も地上も見えない そこにはゆらめく藍色の空間のひろごるばかり ふと天を見あぐると 星ひとつまたたかぬ暗黒が沈黙するばかり まるで空っぽの山水画だな と眉を掻いていると なにやら足裏がひんやりとする いつのまにかそこに 白っぽい石の大地がひろがっていた 思わず立ち昇る湯気から手を離すと 湯気はそのまま天へと消え去り ただ平たいばかりの大地に取り残された 匂いもなければ 音もない 足裏の感触もなければ 風もない やがて白く平たいばかりの大地の上で物質の結節点がほどけ 無数の線となって音もなく落ちていく 気がつくと縁側で 何も書かれていない掌ほどの石板を眺めていて 脇に置かれている茶はすっかり冷めている
蟷螂の夢
蟷螂は夢を見た それはまるで果てることのないうたで はじまりも終わりもなかった ただ風のようにとうとうと流れ あらゆるものをつつんでいた 夢のなかではまだ月が昇っていた 月が昇らなくなって久しく もう月のことも忘れかけていた 夢のなかの月は 地を見張る目のようだった そこに狂いはないか そこに罅割れはないか じっと見据える冷たい目だった 幾度となく月の検分を受けたが それは煩わしくもありながら また検分を待ち焦がれるような 不思議な面持ちだった 月はいつも三角形めいて映ったが たぶんそれは真珠のように丸いのだろう そのどこまでも透きとおった目で いつも地を射抜いていた そんな月がある日ふいに昇らなくなった いったいなぜ隠れてしまったのか 蟷螂にも知る由もなかったが それから地はたださびれていった 獣や虫たちもしだいに姿を消し 草や花や木もしだいに枯れ いまでは化石のように沈黙した残骸が転がっているだけだった それでもなお蟷螂は変わらず森を彷徨っていた 雨上がりの水滴に 自分の姿が映ったことがある たよりない三角の顔がどこか月めいていた いまも自分はここに存在しているのか それともとうに朽ちていて あてのない思い出ばかりが漂っているのか そのとき ふいに雲間から一条の光がもれた 刹那のことであったが月であったような気がした だが地に自分の影は映らなかった すでに思い出ばかりとなっているのやもしれぬ そろそろお暇をいただきたいとも思うが もうここには何もない ただ無だけがぶっきらぼうに投げ出されている
森の王
石がひとつ転がり 夜がひとつ弾けた 王は真紅のガウンを纏い 蔓で編まれた王冠を被り 森のなかを巡回する 夜の巡回はすっかり日課となっていた この森は王国の領土であり 城でもあった この王国がいったいいつ建国されたのか 記録に定かではないが 王冠とガウンを引き継ぐ儀式だけは 厳格に伝えられていた もう百年ほど前のことだが 旅の途中でこの森を通りかかったとき 泉のほとりで休んでいると どこからともなく ひとりの男があらわれた 男はおよそ森には不釣り合いの真紅のガウンを纏い 王冠を被っていた そして久し振りに人にあったので是非歓待したい 旅の土産話でも聞かせてもらいたい とのことで 森の奥へ案内された そこには巨大なキスカヌの木が聳え 男はそのウロへ入っていった 男に案内されるままに木のウロに入ると まずここで着替えをといわれ 男にいわれるままに服を交換した そして宴の支度があるのでしばしここでお待ち願いたいと言い残し そのまま男はウロを出ていった しばらく待っていたが男は一向に帰ってくる様子もない これでは日が暮れてしまうと思い ウロを出て 男を探しに出掛けた だが どこを探しても男の姿はなかった 仕方がないのでこのまま森を出て次の町へ行こうと森の出口にさしかかったとき 体が石のように固まり どうにも動けなくなった 少し引き返すと体は動く だがまた森の出口にさしかかると体はまたしても石のように固まった 何度やっても同じだった 王冠をはずし ガウンも脱ぎ捨てようとしたが 王冠もガウンも体の一部になったかのようにびくともしなかった あたりが暗くなってくる とりあえず一度キスカヌの木のウロへ戻ることにした ウロに戻ったが やはり男の姿はなかった ウロのなかはぼんやりとした青白い光につつまれていた どうやらウロのなかに生えている苔が発光しているようだった ウロのなかに一冊の古い書物が置かれていた 書物を開くと見たこともない文字が並んでいたが 文字を目で追うと 書かれている内容が頭に浮かんだ 森の王国の巡回のこと 戴冠の儀のこと キスカヌの木のこと などがつらつらと書かれている どうやら森で出会った男との服の交換は 厳粛なる戴冠の儀だったらしい 王冠を戴いたものは 次の戴冠の儀まで森の王でいなければならない それまでは王冠を外すことも 森の王国から出ることもかなわない あの男は 毎日森に迷うものを求めて巡回をつづけていたわけだ あれから百年経っても 誰ひとりとして森にやってこない 老いることもなく森の巡回を繰り返しても ずっと何も変わらない 森は相変わらず森だった 何のためにこの森を通りかかったのかも忘れかけていた もともと目的などなかったのかもしれない ある朝 キスカヌの木の葉が一枚落ちていた この森の王になってからはじめてのことだった キスカヌの木の葉を拾い それがまるで儀式でもあるかのように 書物に栞のように挟んだ あくる朝 キスカヌの木の葉が二枚落ちていた 何かの前触れのようだった そのあくる朝は四枚 そのあくる朝は八枚 というように落ちる葉は増えていった 巡回していると いたるところで木も草も枯死していた ある朝 キスカヌの木の葉を掃き集めていると 頬に痛みをおぼえた そっとさすってみると 皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちた 枯死がひろがるにつれ 体がぼろぼろと崩れ落ちていく ある新月の夜 残っているのは左足のかかとだけになり もう歩くための足もなかった 森の王国もすっかり透明な灰になっていた そしてそのあくる朝 左足のかかとも崩れ落ち 透明な灰のなかに紛れていった 森の王国は誰にも知られない
鈴と沈黙
ある夜 少しだけ開けられた窓から 鈴の音が聞こえてくる 鈴の音がしだいに近づいてくる どこからかやって来た巡礼団かとも思ったが こんな夜半に歩くとも思えない いったいどこから聞こえてくるのだろうと 窓を開け 辺りを見渡す 遠くで蛍の光のようなものがゆらめいたかと思ったが すぐ消えてしまう 鈴の音はさらに大きくなってくる 声明ともことなるざわめきもひろがっている ふいに目の前に鈴があらわれ りん と鳴る まわりで影が蠢いている もう一度鈴がりんとなったとき 思わず体が吸い寄せられ 窓の外にそのまま飛び出してしまう 気がつくと 鈴の後について町の上空を飛んでいた 声がでない 周りを見ると 同じように無数の人が飛んで雲のようになっていた 声明とも思った音は 無数の人が大気と擦れあう音のようだった 引き返そうとも思ったが 体はそのまま雲を離れようとはしなかった 雲はしだいに膨れあがっていく いまいったいどこを飛んでいるのだろう なんだか地上が騒がしい 祭りかとも思ったが どうも戦争のようだ あちらこちらで火の手があがり 銃声や砲声 爆発音がしている それでも鈴は飛びつづける 気がつくと雲はさらに膨れあがり 血を流すものや 手足を失ったものが雲に加わっている 鈴が進むにつれ 地上がしだいに静かになっていく 戦火もおさまり 銃声もしなくなる そして地上はただ夜につつまれる それでも鈴はなおも進んでいく いまはいったいどこを飛んでいるのだろう やがて夜が白んでくる 眼下に大きな川と密林がひろがっている 鈴の音が鳴る 雲はさらに膨れ 虫や鳥 けものや花や木や魚が加わる みな鈴の後を追い 雲となって飛んでいる 鈴はなおも飛びつづける すでにこの星を何周か飛んでいるのだろう 幾つもの夜と 幾つもの昼がすぎていく すでに雲は星にかかる輪のようになっている 雲のなかにいいようのない無常感がひろがる 無常の輪がこの星にかかっている これは葬列なのかもしれないな そう思ったとき ひときわ高く鈴が鳴る 海が朝焼けに染まっている ふいに雲が真っ逆さまに下降をはじめる どうやら鈴が海めがけて急下降しているようだ みるみるうちに海面が迫り来る ああ このときが来たのだな そう思ったとき 海に飛びこんだ 雲はなおも海の底めがけて進んでいく りん と鈴が鳴る 七ツ鳴ったとき 雲の動きがぴたりと止み 光もない空間に ただアルトーの沈黙だけがひろがっている