ロクス、あるいは記憶の庭

◎かつてギリシアの記憶術では、胸の内の架構建築ロクスに記憶をはりつけていた。それが外化して神殿や彫刻となり、文化を統べる柱となっていく。日本の里や都に見られる数々の人為的造形もロクスの外化で、里と都のちがいもロクスの類型の差と見ることができる。おそらくは縄文土器も密なるロクスだろう。縄文人が暮らしていたサトもまたロクスそのもので、そこで祭祀が行われ、葬儀が行われ、暮らしが営まれ、ゴミが捨てられた。弥生土器がのっぺりとしているのも、大陸からやってきたロクスのちがいだろう。そして縄文ロクスがおいやられていく。人はいまもロクスのなかで暮らしている。人としての記憶を持つかぎり、人は人のロクスの外に出ることはできない。それをひそかにロクス(記憶の庭)と呼んでいる。ロクス(記憶の庭)の視点から時代の筋を呼んでみるとよい。

メタモルフォーゼ

◎見渡せば、あらゆる場面が別様の可能性(コンティンジェンシー)を孕んでいるということは、宇宙をふくめてこの世はメタモルフォーゼのなかにあるということ。これは成長でも循環でもない。核心はメタモルフォーゼにある。

書物を庭に埋めるとき

ふと 庭が寂しそうと思った 別段花が咲いていなかったわけではなく 梔子が枯れかかっていたわけでもない ただ三日月の光を浴びている庭が どこか唇を結んで天を仰いでいるようだった それで書斎の奥からいまは触れることもなくなった書物を十冊取り出し 錆びかけたスコップで庭の隅に穴を掘り 丁寧に並べて埋めた 火葬にするには偲びなかった ただゆっくりと土に還っていけばいい そんな気がした それから六日たった夜半 どこからかよい匂いがして目が覚めた 上着をつっかけ部屋のなかをあたるが 部屋のなかの匂いではないようだった 障子が月明かりでぼんやりとかがやいている 障子を開け 縁側にでて硝子戸を開けると 匂いが渦となって身体をつつみこんだ 草履を引っ掛け庭のなかを廻る どうやらこのあいだ書物を埋めたあたりから匂ってくるようだった どうやらボーヴォワールの『おだやかな死』を埋めたあたりか 地面に鼻をこすりつけるようにして見てみると なにやら透明な芽が出ている いったい何だろうと見ていると そのまま芽はぐんぐんのびつづけ やがて一本の大木となり 月の光に透ける実をつけた 少し手を延ばせば届きそうなところにぶら下がっている実をもぐと 甘酸っぱい匂いが鼻のなかにひろがった 手のなかの実はやはり透明であったが 月の光をうけておおよその輪郭をあらわにしていた その実は歪んだ瓢箪のような手触りだった 皮膚の隙間に引っかかるような感触が 刺々しい小動物を思わせ 夕空にやってくる浮浪の雨雲のように躊躇いをおぼえた 鼻のあたりにあててみると 臭気のなかに宝石の原石のような独特の匂いが混じっている 思わず両の親指を軽く押しあてると 親指はそのまま沈みこみ よい匂いが果汁とともに放たれた 果汁を溢すまいと唇をあてて吸いこむと 一瞬 蓮の花に坐って悲嘆に暮れる一人の老女の姿が浮かび上がった そのとき 何か毒気を吸いこんだように胸のあたりが苦しくなり 思わず瓢箪様の実を落としてしまった 実は地に落ちる前に蒸発するように消えた 胸の奥の悲嘆が夕立のようにひろがり 身体のすべてを染め さらに庭から家から天までをも呑みこんでいった 身体がすっかり天に埋めこまれてしまっても 悲嘆を止めることはできず 身体がそのまま天に空いた穴となり 冷たい古代の風が吹き抜けていった この底なしの悲嘆がいったいどこから生まれたのか知る由もなかったが それはけして潰えることのない悲嘆となって風のように蹲っていた すでに自分は天の隅々にまでひろがっていて もはや身体を知ることすらできない どこからかあどけない声のわらべうたが聞こえてくる どこかで聞き覚えのある声だがどうにも思い出せない やがてわらべうたと天の境も曖昧になり トグロを巻くようになる そして月が天頂に差し掛かったと思ったとき ぱちんとはじけ のっぺらぼうの無がひとつ 降ってきた

無辺浄土

無辺の浄土に 六枚の花弁をもつ一輪の花が咲く アルカシヤの花は小さく小指の先ほどしかない いまにも降り出しそうな空の下で風に揺れている その根には多様な菌が集まっていて 土という存在の在処をただ黙々と紡いでいる 根から菌へ 菌から菌へと運ばれるその小さな手紙は伝文があるわけでも 目的があるわけでもなく ただ一欠片の記憶を光らせている アルカシヤの根は花の器官でもあり 虫の器官でもあり 土の器官でもあり そのたよりなげな根は夜に紛れるように 土に紛れるように 呼吸するように 旅するようにのびていく 別にのびたいわけではない ただ器官としてそこに在るだけのことだ 根はのびもすれば 腐りもすれば 土竜や蚯蚓に食べられたりもする 腐った根は菌たちのご馳走になったり 土になったりもする 土竜や蚯蚓に食べられた根は分解され 土竜や蚯蚓のなかの根となったりもする こうして根は ここかしこで生まれたり 育ったり 腐ったりしながらも 相も変わらずひろがっていく 時折 あちらからやってきた根と会うこともある どこかの花や 草や 木の根であることもあるが 根と根が一旦結ばれれば もうそこに区別はない それははてしのない祝祭だ 祝祭がはじまって もう三十五億年ほどになろうか そろそろ根も此の星の隅々に行き渡り たったひとつの浄土となっている 浄土はいまも生まれつづけ いまも死につづけ ただ祝祭の旋律に耳を傾けながら ただ此処に在る

香りのよい夜

どこからともなく よい調べのような香りの漂ってくる夜であった 文机の脇に 美しくもたわわな九本の尾をもった狐が 蹲っている なにか御用がおありですか と訊ねるが 細い目を一度開けてこちらを一瞥すると また瞼をゆっくりと落とし 寝入る この香りはたしか伽羅の香りではなかったか こどものころ 祖父の書斎で聞いたことがある 眉をしかめると 祖父は春の日差しのなかで 声も立てずにただ笑っていた その数日後 祖父は上着を畳むようにして旅立っていった 書斎には 仄かな伽羅の香りだけが残っていたが それもひと月ほどしてかき消えてしまった そして初夏の咽せるような草の香りが佇んでいた あたりを見回すが 香はどこにも焚かれていない 文机の脇で深く息をしている狐から漂ってくるようだった この狐は祖父の化身なのだろうか それとも使いなのだろうか 祖父の顔が脳裏に浮かぶが 祖父は押し黙ったまま ただ笑っている ふいに狐の両耳がぴんと立ち 目が見開かれ 古代の彫像のようになる そしてこちらを一瞥すると 九本の尾にからだを埋めるようにして音もなくくるくると回り 一瞬星雲のような瞬きを放ったかと思うと そのまま文机に吸いこまれるように消えてしまった ただ伽羅の香りだけが残っていたが それもやがてふつと消えた

廃墟の夢

かつて夢は未来の記憶であったが ここでは森に呑まれてしまった廃墟の底に横たわる屍体でしかない 月が昇り 風がひとつ吹くたびに思い出も剥がれ 夜の分子に紛れていく ふいに分子の隙間から子守唄のような調べが流れたが もはやそれを聞くものも存在しない ただ分子ばかりが揺籠のようにゆれ 世界の淵を攪拌する 時から解放された夢は苔を伝う雫のように地に浸みこみ 世界を巡り やがて月になり 風になり 夜になり 無のなかへ消えていく ただ春のあたたかさだけが 廃墟をつつんでいた

祈りの夜

ある新月の夜 キスカヌの木にもたれていると 肌がどこまでも薄くなり 血管や神経もどこまでも細くなり 細胞膜という細胞膜もどこまでも薄くなり やがて たよりない有機物の絲となってキスカヌの木のなかへゆっくり沁みこんでいく そんな光景をどこからかぼんやりと眺め味わっている意識がゆらめいているのだが それはどこかにぶら下がっているわけでもなく 世界の隅々にまでわたっているようで もはや取り出すことも分離することもできそうもない そう そこに自分が在ったわけではなく ただ投射されるように浮かびあがっていただけなのだろう 植物の祈りにも似たざわめきがやってくる 本を開いたまま置き忘れてっしまったような淋しさが通りかかる 何かあったわけではない 何もなかったわけではない 意味などあろうはずもなく ただ物質的記憶として 名もなき水の分子のように流転し 時と戯れる

世界測量士

このところ どうも世界各点の歪みがひろがっている ここ十万年分の観測記録をあたってみたが このような歪みはどこにも見当たらなかった 測量機器の故障もあるかとひとつひとつ調べてみたが何の異常も見つからない いったいいつから世界測量士をやっているのか とうに忘れてしまったが このような歪みにはとんと覚えがなかった まるで世界が意志をもって挙動しているようだった まるでこれまでの測量がすべて白紙に戻されるような ちろちろとした不安に襲われる はじめは西の遠望台からだった 粒子がひとつ弾けたかと思うと 弾ける粒子が瞬く間に連鎖し 世界をそのまま入れ換えるように 裏返りはじめた 物質という物質が裏返り 時間も空間も裏返り この世界のすべてが裏返るまで たった一万年しかかからなかった 測量機器も測量もすっかり裏返ってしまったわけだが なんとか無事測量はつづけられそうだった いったい測量や記録に何の意味があるのか それはさっぱりわからない 生まれながらにして測量士であっただけのことだ ただいまは はたして測量しているのか はたまた測量されているのか それは定かではない はたして記録しているのか はたまた記録されているのか それも定かではない ただできることは 世界光を浴びながら 測地線の祀りでアリアを歌うことだけだった

タブラ・ラサ

何も書かれていない掌ほどの古い石板を眺めながら 一杯の茶を啜ると 甘く懐かしい香りが鼻腔のなかにひろがり 名も知らぬ深山を渡る風を想わせた 古代鳥の卵を抱くように茶碗を掌のなかにおさめていると 幾筋もの湯気が朝方の雲のようにたなびき 立ち昇っていく ふいに湯気が静止すると 湯気の隙間を縫って昇るわれが在る たよりない湯気に指を絡ませながら 思い出を辿るように昇っていく ふと眼下を見やるとすでに縁側も地上も見えない そこにはゆらめく藍色の空間のひろごるばかり ふと天を見あぐると 星ひとつまたたかぬ暗黒が沈黙するばかり まるで空っぽの山水画だな と眉を掻いていると なにやら足裏がひんやりとする いつのまにかそこに 白っぽい石の大地がひろがっていた 思わず立ち昇る湯気から手を離すと 湯気はそのまま天へと消え去り ただ平たいばかりの大地に取り残された 匂いもなければ 音もない 足裏の感触もなければ 風もない やがて白く平たいばかりの大地の上で物質の結節点がほどけ 無数の線となって音もなく落ちていく 気がつくと縁側で 何も書かれていない掌ほどの石板を眺めていて 脇に置かれている茶はすっかり冷めている